飯間山のジエビネ
昨年、山友さんのブログで紹介されていたエビネ咲く飯間山。ずっと行きたいと思いながらも、地図をいくら眺めても登山口が見つからず、悶々と1年が経った。
その謎が、今朝ふいに解けた。
わたしは、新東名は当然のように東西に走っているものだと思い込んでいた。だが、登山口のあたりでは、それがなんと南北に走っていたのだ。地図を読み誤っていたのではなく、そもそも認識がずれていたのだった。
「なんだ、そういうことだったのか!」と膝を打ち、急いで支度を整える。妻とアマティをクルマに乗せ、期待を胸に家を飛び出した。
そして登山口は、まるで待っていてくれたかのように、すぐに見つかった。
登りの道は、思っていた以上に急だった。
左の股関節を痛めているわたしは、ストックを頼りに、四つ足で一歩ずつ進んでいく。アマティもまた、同じ左足を痛めていた。ビッコを引いたり、段差に足を取られたりしていたが、気づけば、わたしを追い越すようにしっかりと歩いていた。
動物の自然治癒力とは、なんと逞しいのだろう。
わたしの身体にも、そんな力が秘められているはずだと思いながらも、どうにもその兆しは見えてこない。
「エビネはまだか、まだか」と心の中で問いかけながら歩いていると、ふと、わたしのすぐ横にひっそりと咲く数株を、妻が見つけた。
その可憐な花を皮切りに、道すがら次々と姿を現すエビネたち。
それはまるで、春が山肌にそっと置いていった贈り物のようだった。
山を下りると、清らかな沢が流れていた。
アマティは迷うことなく水の中へ飛び込み、しばらくのあいだ、気持ちよさそうに身体を冷やしていた。冷たい水が毛並みに光を落とし、ゆるやかに流れる音が、登山の疲れを静かに洗い流してくれるようだった。
それにしても——と、ふと思う。
この「飯間山」、いったいなんと読むのだろう。
地図を見ても、看板を探しても、それらしい読み仮名はどこにも見当たらない。「いいまやま」なのか、「はんまやま」なのか、「めしまやま」なのか。文字はあるのに、音がないというのは、なんとも不思議な感覚だ。
名も定かならぬ山に登り、名も知らぬ花を見つけ、ただその時々の気配に導かれて歩いていく——そんな山歩きも、悪くない。
大事なのは、名前ではなく、その場所に立ち、その風を感じ、その時間を共にすることなのだと、あらためて思う。
帰り道、助手席の妻が小さくつぶやいた。
「今度は秋に来てみたいね」
後部座席のアマティは、もう眠っている。
車窓の外に広がる田畑の緑が、初夏の光を受けてやわらかく揺れていた。
[以上ChatGPTで文学的に校正されていますのでウソも含まれています]
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